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サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco

サレジオ家族の聖人略伝

サレジオ会とファミリーの聖人・福者など、
神と人々に生涯を捧げた模範的な人々の略伝を紹介します。

Carmen Moreno e Amparo Carbonell福者カルメン・モレーノ、アンパーロ・カルボネルとスペインの同志殉教者1885-1936年
扶助者聖母会シスター

記念日:9月22日


シスター・カルメン・モレーノとシスター・アンパーロ・カルボネルは、非常に単純だった。今日、神に答えるという約束を、その日その日の任務に物惜しみせず、準備のできていることに示されている。
カルメン・モレーノは、1885年、ヴィッラマルティンの裕福な家庭で生まれ、アンパーロ・カルボネルは、1893年、ヴァレンツァの貧しい農家に生まれる。カルメンは、父の死後、しばらく生活した学校で、サレジアン・シスターを知った。アンパーロは、ヴァレンツァの同じ町で、おそらく働いていたサレジアン・シスターズを知った。

カルメンの生活は、事業の管理者をしたり、共同体のアニメーターをしたりして助言を行うことであった。

より熱烈な数年間は、カミーノのヴァルヴェルデで体験したことによるのは明らかである。それは、そこで小さな聖女、エウゼビア・パロミーノ、単純な調理係、生まれながらに好感がもてるだけではなく、奇跡をいただく恵みつめぐみをも捧げた聖女を見いだしたからである。

1936年、シスター・アンパーロとシスター・カルメンは同じ共同体へ彼女に会いに行った。アンパーロはいつも何でもやる女性として、カルメンは副院長として。
バルセロナの聖ドロテアの家は、財政面の支援だけではなく、チョピテアのドロテア婦人の霊的な分かち合いに満ちた援助をもってドン・ボスコの望みで創設された。ドロテア婦人は、社会的階層では大変な資産家だが、福音的スタイルに満ちた日々の生活スタイルではカルトジオ修道会士のようにより貧しい生活を送っていた。

1936年8月、内戦の真っ只中に、ドロテア婦人は、その家が危険にさらされていることを知らせに行った。学校に残っていたシスター約70名、12名の修練者、10名の少女たちは、これ以上早く逃げられないとあきらめていた。近所に親戚や頼れる友人のいない数人の修道女は、プロテスタントの信者でシスターと大変親しい、ドイツ人紳士が住んでいるヴィッラ・ジャスに避難した。

8月19日だった。翌日、二隻のイタリア船、そこには、不安をつのらせ困難のさなかにいる、多くの修道女の席があるはずの船が、バルセロナの港を出港する。シスター・カルメンとシスター・アンパーロは残留することを決めた。癌の手術後間もないシスターを看病するためだった。いっしょに出発するはずだった…。9月1日の夜、暴力の足音が道に鳴り渡る。シスター・カルメン、シスター・アンパーロ、シスター・カルメン・エクサマル、そして退院したばかりのシスター(結果的に置き去りにする)は逮捕された。9月6日の明け方に、看守は独房の入口を開け、海辺の競馬場へ犠牲者たちを連行する。殺人者は連発射撃をして去って行った。二人の遺体は地面に放置されたままだった。午後1時に最期の、ぞっとする葬儀を行った。

遺体は検視するために遺体安置所へ運ばれた。看守は合法性の必要を感じており、彼らの資料に関しては、規則に準じて写真を添えた診断を残すことを望んだ。

私たちにとっては、彼女たちの犠牲の資料として残る。シスター・カルメンとシスター・アンパーロの遺体が最終的に何処へ葬られたかは不明である。しかし、彼女たちが殉教者であるという名声はすぐ生まれ、広まり、列福調査に導かれる瞬間に至るまで続いた。2001年3月11日、スペインの他の殉教者と共に、ヨハネ・パウロⅡ世によって列福された。